2016-12-31

reflection





ここ数年、昔に比べてものすごく無気力だなと自覚しています。
早いものでブログを初めたのが6年前、その頃を思い出すと根本的な部分では同じなのですが、性格はだいぶ変わってしまいました。自我というものが少しずつ死んでいった結果です。
様々な環境で自分を殺すのが一番いい方法なのだということを知り、自分の感情赴くままということがなくなりました。笑っている驚いている泣いている、けれどそれは目の前の人がそれを求めているから。怒られたら自分のせいでなくても謝るしかない、楽しそうにしていなければ何か言われるからとりあえず笑うしかない、落ち込んでいてもそれを出すと余計に攻撃されるのでいつもどおりを装わなきゃいけない、平気じゃなくても平気なふりをしていたほうが楽。そんな生活を強いられていたので別人のようになった気がします。一番酷かった時期、「目が死んでるけど大丈夫?」と昔の知人に言われてしまいました。前は服の話とかしながら目がキラキラしていたそうです。去年の年末、友人に状況を説明していたら「で、eriはどうしたいの? eriがどうしたいかが全くそこにないじゃん!」と言われたことも印象に残っています。自分がどうしたいかで動いていいんだな。当たり前のことだけど、日々自分の感情を殺しているとそんなこともわからなくなるのです。
きっとよくある話なんだと思います。抑えて抑えて消化されない怒りや悲しみが静かに蓄積されていき、ある日を境に全てが無理になる。平気なふりが突然出来なくなる。なぜ我慢しているのかわからなくなる。言葉では表せないくらい、ものすごく苦しくて、とてつもなく虚しいこと。
そうならないように今年はきちんと動けたと認めてあげようと思います。
昔は書きたいことも山ほどあって言葉が頭の中を渦巻いていたけれど、そんなこともなくなってしまいました。
来年はいくら時間があっても足りないくらいイマジネーションに溢れる年にしたいな。



今年の初め、一番息詰まっていた時に読んだ川上未映子さんのエッセイから、心に留めておきたいページを残しておきます。


“なにとも比較できないなにか。誰かにとやかく言われようのないなにか。学校や職場以外の場所にこそ、仕事や人間関係以外のものにこそ、自分にとって素晴らしいものがあるという自信をもつこと。もしいまそれがなければ、いろんな場所やものに触れて、そう思えるものを見つけること。いまの自分の現実だけが現実ではないと知ること。世界に角度をつけること。本でも映画でも、信頼できる誰かと昔に交わした言葉でもなんでもいい。それは自分の殻に閉じこもってまわりを見ないようにすることとはまったく違って、なにかひとつ、誰にもわかってもらえない自分だけの大事なものを見つけることが、明日また、学校や職場でがんばるためのちからになると思うのだ。人からどう思われようと、決して揺るがないものをひとつだけでいいから胸にもっておく。それは本当にわたしたちが困ったときに、わたしたちを必ず助けてくれるちからになる。

孤独の豊かさを知らなければ、何人と遊んでいたって満たされない。ひとりきりを過ごすことができなければ、誰といたって安心できない。自らをちゃんと考えるための言葉をまだじゅうぶんにもっていなかった少年少女時代をへて、そして、無数に存在する人間の中で、自分という得体の知れないものをもてあましてなにもかもが過剰で苦しんだ思春期をこえて、ひとりでいること、孤独であることのー誰の目も経由しない、本当の淋しさと滑稽さと強さを知った人たちが寄り添うときにはじめて、お互いがお互いをもっと理解したいと思えるような、ずっと大切にしたいと思えるような、そんな気持ちに出会えるのじゃないだろうか。そこに誰がいてもよかったような関係じゃなく、わたしでありあなたじゃなくちゃいけなかったと心の底から思えるーそれが愛情でも友情でも、交わした言葉や視線や風景を思いだしさえすれば、今日もまた生きていけるような関係を、築くことができるのじゃないだろうか。”
(安心毛布 わたしであり、あなたでなくちゃ より)



今年も細々とした更新になってしまいましたが、それでも訪れてくれた方に感謝します。
ありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎え下さい。




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