2010-11-20

chic or sick



ほんのすこし、秋をこじらせていました。

どこからか風邪をもらってきて、そうすると家のなかがしんとして、マスクごしのこほこほという咳だけが響くと自分が妙に鮮烈にそこにいてひどく面喰ってしまい、普段目を背けているようなことがいつも冷えた窓際にまとわりついて隙あらばねえねえと主張、正直困った。

でも心がねじれた理由なんていくらでもつけられるし、それが長い年月をかけてそうなってしまったものだとしたらねじれたことを認めるは自分を否定するようで躊躇ってしまうけれど、それでもきちんと客観的に自分を把握すること、簡単で難しい、けれどやはり単純なことでした。導いてくれたひと、尊敬できるひとがいること、めぐりあわせに何よりも感謝しています。

たとえば今いっしゅん左胸がちりっとしたけれどそれが肺なのか肋骨なのか胸筋なのか脂肪なのか皮膚部なのかそれとも心臓なのか自分でも不明なほど無関心、けれど、今まではなぜ痛みが走ったのかと痛みを忘れてもそればかりを追求するようなことをしていたのかもしれないなとようやく気がついたような、そんなかんじ。 なにかを探しているときはだいたい視野が狭くなっているから。

秋はからりとした空気で輪郭をみごとに際立たせる。鮮やかに、くっきりと。 まとまって飛び込んでくる紅葉はひどく鮮やかさが潜行するのに葉っぱ一枚を見上げると枯れているようにも見える。 それに秋はいつだって好きなのに短い。毎年もう行っちゃた、と肩をすくめている気がする。

そろそろ冬に追いつかれそう、なんというシック。



2010-11-07

Old habits die hard.



白いバスタオルが機嫌よくはたはたと揺れ、天高く馬肥ゆる、細長いビルのさきっちょにさえもひっかからない雲ら、肺まで沁み渡るように深呼吸。わけあって渋谷、JRA近くを歩けば前を行く歩き煙草率の高さに幻滅、ぬかしてもぬかしてもかぶるは灰、けむけむと咳込んでも誰もかまわず、副流煙をたっぷりと摂取、皆新聞を広げてそれぞれにえづき痰をこぼした道端に限りなく猫背でしゃがみこんでいる。反対側ツタヤからセンター街に進むにつれて道が薄汚れ、呆れるほど威圧的な行為と無遠慮に絡まる視線、踵が鳴り響き、昨日君らが威勢よく唾を吐いたであろう場所にがやがやとやかましく座り込んでいる。

たとえば目をつぶって5秒、瞼を開いた瞬間に異国の地、たった一人きりでワープすると仮定して、先程までと同じように傍若無人な行動をとれる日本人の確率を求めよ。



2010-11-05

has been

今でこそ本についてが楽しくなりましたが実はごく最近の話で、本が好きな人というのは多感な頃にたくさん本を読んでいるのだろうけどわたしはそういう時期に全く読んでいませんでした。社会になんの疑問も反発も抱いていない全能感あふれる女子だったので太宰など読んでも何も響かず超くらーいと真剣に嫌がった、いい大人が何じめじめしてんのって。 記憶をさかのぼると小学生の時に少年探偵団にはまって図書館に通い詰めたことや新学年になって国語の教科書をもらった日に読破するのがお決まりだったし、読むことは好きだったような気がするけれど視力低下という事実、眼鏡への恐怖とともにいつのまにかぱったりと途切れ、いつのまにかハタチを越えた頃、レーシックの手術後、経過もよくノー眼鏡だと実に気持ちよく本が読めることに気がつき、そこから少しずつ本漁りが始まったわけでした、医療のミラクルありがとう。

気分で色々選べるようになったのは嬉しい進歩で、ああ今こういうのを求めてたとめくるたびに思えるのってすごく気持ちのいいこと、もしかしたらわたしのための本なのかも、と本気で思っちゃう時もあるし、それを今日きちんと選べた自分も誇らしく、あれこれの批評はつきものですが、誰が何と言おうと自分がいいと思った本はいいのだし、ただそれを誰かがやみくもに否定してるを聞いたら虚しくなってしまう、いいと思った自分ひっくるめて非難されてるみたいで悲しくなってしまうなってこと。





毎日に大きな夢や達成感がないなんて信じられないし、自分は何かをして役に立たなければ生きてる意味なんてないぐらいについこの間まで思っていたけれど、例えば読みたい本がたくさんあって、新刊も待ち遠しくて、些細な楽しみがつきなければいつもわくわくしていられるかもしれないな、と思いながらタイトルのハスビーンが妙に気になって読んだ「憂鬱なハスビーン」、ぎくりとする部分は多くまさに今読むべき本だったなと心から思い滑らかに読み終えたのですが、白い猫にシロと名付けられたことに今更憤慨していて、その次に読んだ本は黒い犬の名前がクロと名付けられたときは安直でつまらないと言っていたのにいつのまにか洗練された名前だ、なんて言っていた。そういえば拾ってきた犬に「絶対わたしの味方だから、名前は絶対」ていうのもあったなーと思い出して、ちょっと暴力的な気もしたけれど、わたしが名付けられるんだったら絶対がいいなーと思った。わたしは色が白いほうだから「東北出身なんでしょう」と言われることに飽き飽きしていて、しかも全然違います、けれどこれからも多分言われるのだろうし、クロもシロも見た目でつけられるかんじもなんかあれだし、かといって巻き舌必須なおしゃれなお菓子の名前とかつけるような飼い主にかわれたらまぎれもなく服を着せられるような気がして億劫で、そうなると「お前は絶対だ」と言い切る飼い主が一番好きになれそう、ただ日々を従順に、飼い主のことだけを考えていられる、それって実は一番いいと思う、わたしは。

ハードカバーを買うといまだに贅沢な気持ちになるけれど、きれいに置いておきたい気持ちから丁寧に扱ってしまうので手に馴染むという点ではよそ者感が消えない、けれどドッグイアしたいので好きな本の文庫は必ず買って好きなページはどんどん折る、我が家のドッグイアされている率はやっぱりどうしても江國香織さんで、その次は太宰さんのなのです、ぷ。 超くらーいと揶揄していた人に今や救われちゃったり憧れたりするなんて人なんてわからないものだなーとか他人事のように言いつつ、次に自分がどう変化していくのか、実は自分が一番楽しみだったりする今日この頃。

ちなみにハスビーンとは一発屋、もう終わってしまったヤツ、現在完了形のhas beenのこと。



2010-11-01

elegy

秋はどこへ消えたのかと首をかしげる暇もなく寒さが露出部分を突き刺し、ぼんやりと前を歩く人の傘からこぼれた雨粒がなんともいえないネイビーの背中を流れるのを見つめ、ふいをついてきた強風に傘を持って行かれそうになり、ようやく、わたしは我に返ります、台風の上陸は間近、雨音も寒さもより一層鬼気迫る勢いで、土曜午後5時、明日は家に立てこもりを決意、指を冷やす雨が空からこぼれ続けていました。

雨音の中ベッドで寝そべりながら漫画をしこたま読もうと自堕落な計画は虚しく台風はそれた様子、くぐもった空は相変わらず晴れる気配はないのでやっぱり毛布にくるまる救いようのないわたし、思わせぶり台風フェイントくらった日曜日。

聖徳太子が雨を降らすシーンが非常に印象に残ってるは「日出処の天子」、初めて読んだのは小学生の時、あまりにもてんこもりな内容ゆえについていくのも精一杯でしたが、大人になってから読むとよりいっそう感慨深く、色々なことを考えさせてくれる物語で、絵も好き、とくに指の表情がきれい。





丑寅の方よりまうづ~と声が響き魑魅魍魎がやってくるシーンの鳥肌感もいつものことながら背筋が凍るほどの王子の頭脳明晰とそれゆえの孤独が何度読んでも溜息を洩らしてしまいます。

厩戸王子の毛人への想いも右肩上がりで、読んでるといつだって王子の味方になってしまうのは最初から変わらず、毛人だって王子のこと特別という言葉では陳腐すぎるほどな存在なはずなのにどうしてあまりにも普通な布都姫に惹かれてしまうのかとやきもきするのも常、ごろんごろんと毛布に巻かれながらもどうしてもどうにかなってほしいと一人で苦悶、いつだってどっぷりとめり込んでしまう濃ゆさ。

結末は厩戸王子の壮絶ともいえる悲劇で終焉を迎え、続編の「馬屋古女王」は王子の死から見えてくる呪われた血族の行方、欠落をかかえたそれぞれが自嘲しつつおぎなった結果ゆえ恐ろしくも切ない破滅への挽歌なのではないかと思います。 フィクションといえども歴史に忠実にもとづき、聖徳太子は実在しなかったんじゃないかという説もまた謎を深め、リアルなようで非現実な雲の上の不思議な世界。





そうこうしているうちに急激に雨は途切れないリズムで屋根を叩きだしました。

今年は春に雪が降り梅雨は少なく秋は駆け足どころじゃない早さで姿を消し、秋の夜長を妨害するのは誰と寒さに震え、日本はいつのまに四季ならぬ二季になったのか頭を悩ませながらの11月への突入です。