2010-09-15

Ferris wheel

走馬灯というのは影絵が回転しながら回るように細工された灯篭の一種、だということは全然知らなかった。最近は実物にお目にかかる機会もなかなかないようで、人が死ぬ前にぱぱぱっとスライドショー的なのが一瞬にして上映されるらしい走馬灯現象というものを走馬灯と略して誤用してしまうらしいので、走馬灯を作ってる人にはなんだか申し訳ない話。

特に瀕死の状態になってはいないけれど、昨日の夜、まるで走馬灯現象のような夢を見た。
厳密にいうと、どこら辺から夢なのか、がはっきりしないタイプのもの。
それに過去のこともたくさん出てきたし、食べ物が多かった気がするのは食いしん坊だから。美味しいと言うのを後回しにするくらいおいしかったものやジャンクなもの、それからついさっき口にしたものまで。よく夢を見るから、例えば夢で会った人と次の日会うと、昨日はどうも、なんて口走ってしまいそうなくらいリアル系であり、五感的なものもくっついてくるので、本当にごっちゃになってうっかり炸裂してしまうこともしばしばあったりするけれど、昨日のは思い出せば思い出すほど、夢と現実の境目が見つけられなくなってしまっていて。





観覧車を見た。
あの消灯前のちかちか主張してくる電光石火は初めて見た時からわたしの心をぐっと掴んで離さない何かがあり、人が花火を好きなような感覚なのかなあ。

花火は夜空に空気を震わす音を連れてしゅっと開き、そしてまったくきれいに姿を消していく。
ざわざわとした人ごみの中でそれを見上げると一瞬にしてなくなった火花は、なくなることが当然と思われているらしく、本気で消えちゃった悲しいねさみしいね、なんて感じてる人はいるのかいないのかは、全くわからない、だってみんなイベントとして楽しそうだし終わると混雑に不機嫌だし。もっとこうじっくりと見る機会があれば、もしかしたら好きになるのかもと、ざっくり思う。

夜中の観覧車はある時間になると音もなくふっと突然消える。
そして枠だけが残る、それがまたいい。
あれだけチッカチカしといて消灯するとただの鉄骨、それも剥き出しの枠組み。
けれどまぎれもなくそこにあるから、また明日も光りますよ、という安心さえくれたりする。
観覧車に乗ったことはない。乗った夢も見たことない。





背骨を窓枠で冷やしながらぐるぐると規則的に回る光を目で追ったのは現実で、音もなく華々しく色が散り、しゅっと消える瞬間を見たのは多分夢の中だった気がする、実際にはその瞬間を見逃していつのまにか暗闇にそびえたつ冷たい鉄骨になっていたから。けれど目を凝らして骨組みをなぞるのもわりと好き。

今日はまぎれもなく秋でしかなかった。夏はもう終わってしまって、過去のことになっていた。
どしゃぶりのせいで大きい車輪が冷えたのかもしれない、そんな風がとおくからやってきて頬を撫でて消えて。
わたしのスライドショーに観覧車は必須だなとぼんやり、しかし切実に思う。




2010-09-02

Franny and Zooey

海外文学を今も滅多に手に取らないのは心のどこかで日本文学だって理解しきれないのに外に目をやるなんて贅沢なことだ、なんて気真面目すぎる部分が根付いているからであって、名前とか地名とかが全部カタカナだと覚えにくいという子供みたいな言い分もあるけれど、これはだいぶ昔に読みました、そしてひどく印象深かった一冊。





うまく言葉には表せないけれどすごく影響をうけたし心のどこかにいつもフラニーがいるような気がして、だからこの本が好きだとか誰かに伝えることが恥ずかしくて触れずにそっとしてきたのに、今年のはじめ、サリンジャーがいなくなってしまった事を急に思い出して、また少し悲しくなった。

人間なんて完璧じゃないし自分もどう頑張っても完璧にはなれないし、だからこそ目の前にいる自分以外の人に完璧を求めるなんてもっと無意味だし、それでも完璧、とはいかなくても理想には近づけるように自分を運ぶ行為はいくつになってもやめたくないと思うけれど、ふと立ち止まるとその理想像ですらあやふやになってしまっているような気がして急に不安になったり後ろを振り返ると過去のあれこれに飲み込まれそうになるから必死で顔を上げるようにして、ただあまりにもスノッブな大人ばかりに囲まれるとその行為自体もよくわからなくなってしまうんですが、年を重ねる=大人になるということじゃないんだと気づいたあの日からどうも年齢は信用ならないもので、おかしな屁理屈とともに理論でねじ伏せられてそれがどうしても矛盾としか思えず、そして矛盾している人が矛盾をさらに矛盾をうむ、それは矛盾を作り出していないと正当化するためのもの、それはいかがなものかと奮い立ったところで世の中にげんなりするだけなんてことはほぼわかりきったことゆえ、蜘蛛の糸に絡まったような悪夢もさることながら現実だってけっこうシビア。
出来るだけ自分にとって心地よく過ごせたら、と思うのですがきっと難しい世の中なんだろうな、妥協とか諦めなしのそれは。





ちいさなことに傷ついて、ちいさなことに感動、ちいさなことで大きく笑う。
世界が道徳を失っても、それだけはなくしたくない感情が揺れる部分は、一番見えにくくて、そして美しいところ、なくなっても気がつきにくい、あたりまえという感覚。
たとえ生きていてもすれ違うことなんてないにしても、今まで地球のどこかにいたサリンジャーは本当にいなくなってしまったんだな、と思いながら読み返すと「わたし、シーモアとお話したい」というフラニーの一言がぎゅっとまとまって飛んできて、なんだかちょっと切なくなったりして、なんとなく。