2010-12-30

Dear all

年月に区切りがあることについてそもそも考えたことなどなかったけれど、今思うのはまた一つ西暦を積み重ねその上四季が順序良くやってくるということは、去年の今頃と比べられるということ。 学生のころは一年の進化というのは目覚ましく明瞭だけれど、大人になると意識しない去年の自分との比較、そう考えると去年の今頃はごたごたしていたし、けれどそれが本当に一年前なのかと疑ってしまうほどに2010年があまりにも色濃く混沌としていました。 秋の延長につき少しばかり遅延した冬とともに春が待ち遠しいような気持ち、そんな穏やかな自分に一番驚いているのはわたし自身です。 生きていることは死ぬまでの退屈しのぎ、けれどそれをどう楽しく過ごすか取捨選択を繰り返していくなかで、どうかどうか間違えることがありませんようにと願いながら。




一瞬の選択で全てを失うこともあるけれど、飛びこまないと感じられない冷たさだってある。 それを決めるのは全て自分で、なにもかも自分次第なのだと痛感しました。

何があっても変わらずに仲良くしてくれた友達、導いてくれた大切なひと、それから誰も辿り着けないようなここで出会えた顔も名前も知らないあなたにも最高のありがとうを。 よいお年をお迎えください。



2010-12-29

South of the Border, West of the Sun

せまりくるは年の瀬、師走はやはりあまりにも早すぎる速度で過ぎ明日は実家に帰る切符に記されている日付、また12から1への回帰を生まれ育った場所で迎えようとしています。 上京するといつ決めたのは定かではないけれど当たり前のように東京で生活をするんだと何の根拠もなく信じていたほどにそれは必然で、新幹線で約一時間半の距離は日帰りさえできるほどなのに、ここ数年の帰省は年末年始だけとなってしまい実家から東京に戻るとなんだかひどく落ち着くほど今の環境が気に入っているのです。

それでも鍵盤に触ることが目下の楽しみでありなんだかんだ満喫はしてくるような気もするのですが、毎朝ひどく憂鬱に倒れるように降りていた階段、掃除機をぶつけてかけてしまったピアノの脚部分、身長のメモリ、楽しいことも悲しいことも様々な気持ちをかかえて歩いた通学路、懐かしいと思う気持ちもそこそこに記憶は断片的なので本当にこの家で18年間も過ごしたのかさえもあやふやになって自分だけが取り残されたような感覚。





「子供の頃、僕はこの一人っ子という言葉がいやでたまらなかった。その言葉を耳にするたびに、自分には何かが欠けているのだということをあらためて思い知らされることになった。その言葉はいつも僕に向かってまっすぐに指をつきつけていた。お前は不完全なのだぞ、と。」

ひとりっ子という言葉を口にするたびに、「国境の南、太陽の西」の最初の冒頭部分を思い出すのだけれど、わたしは子供の頃よりも今の方が嫌だなあと思ってしまいます。 何気なくひとりっ子ぽいねと言われると相手はそんなつもりなくても欠落しているねと笑顔で詰られているような気分になり、兄弟がいないだけでひどく特殊な存在であるかのようなこの言葉とはこれからもずっと付き合っていかないといけないわけで、けれどひとりで過ごすことは慣れているし幼い頃からそれが日常だったので出来れば群れないほうが楽だけどそうも言ってられない日々の中、大勢に囲まれるとどんなに楽しくてもなぜか自分ひとりだけフィルターにかかったようにふわんと浮いてしまうのが常、馴染まないねと言われることも多いのが特徴です。

何かするときにはいつも必死で限りなく100%なのにどこか客観的な自分がいて、楽しいことも悲しいことも何か本を読んでいるかのようなこの心理的現象、だから過去の記憶もひどくぼんやりとしてしまうし、大勢に囲まれていてもなんで自分だけここにいるのにここにいないんだろうとひたすら思い悩んだ時期もそういえばあったような気がしますが、もはやそれも曖昧模糊。 いつかはそんな劣等感が拭えるときが来るのかなあとたまに思ったりもするけれど、完全なものが全て美しいとは限らないし、欠けてるからこそ沁みてくるものだってあると、そんなふうに前向きに考えられるようになったのはつい最近のこと。

贅沢と言われようとも帰省するときはいつも必ず指定席、弱虫だから実家に帰るための自分が座っていい席がないとひどく不安なのです。

山に囲まれたあの街は冷たい風が全身をくまなく刺してくるだろうから、いつもにましてたっぷりと着こんで隙間なく。



2010-12-11

I know what to do.




「空調の音が脳内を占拠、思考にはいつも靄がかり、輝かしい齟齬、皮膚の上にもう一枚みえない鱗をまとい、いつからか薄い膜に覆われたわたしが溶けだすのは虚無がせめぎ合うがらんとした部屋、そもそもが形而上的で、唐突に亀裂が生まれ避けてきた外気に触れるとついに腐敗へ、ずっと守ってきた一部分が剥がれ落ちたことは恐怖でもあり解放でもあり目が覚めて広がる空は窒息するほどにさめざめと青かったのです、おはよう」



2010-12-03

Aesop



イソップが日本に上陸して15年、待望の路面直営店が12月8日、青山にオープンします。 実はごく最近なのですが遅ればせながらわたしもイソップデビューしたばかり。 憧れている生活の中でそれを見つけ、今すぐ全ては手に入らなくとも何か真似したい、そんな気持ちで購入しましたが、金額をよく確かめずに直行したため思いのほか高額だった、というのが直後の感想です。

手を洗う行為、雑にがしゃがしゃではなく手の甲を外側から包むように撫で、それから指と指を絡めるように。ハンドソープがもたらす効果ってこんなにも大きかったのかとイソップを使って実感しました。ワンプッシュもいらないくらいの量でたちまち香りが広がる瞬間はふんにゃりとゆるみ、肌触りのよくなった手の甲を鼻にくっつけてまるで子供のようにくんくんと嗅いでしまうこの気持ち、使えばきっとわかるはず。お値段はけしてハンドソープの価格ではないけれど、わりと大きめのボトルなので長持ちしそうだし、なによりもこの贅沢感。

知らなかった世界の扉をひとつ開けたような、そんなすがすがしい香りが充満しるたびに、背伸びしてでも買ってよかったなと思うのです。





水・ラウレス硫酸Na・ココペタイン・コカミドDEA・マンダリンオレンジ果皮油・アトラスシーダー樹皮油・ラベンダー油・オレンジ油・海塩・ローズマリー油・クエン酸・メチルイソチアゾリノン・メチルクロロイソチアゾリノンが生み出す優雅な香りとキメ細かい泡が心をゆるやかに溶かして指先から洗浄、そして潤いは残留、その他もろもろは排水溝へ。



2010-11-20

chic or sick



ほんのすこし、秋をこじらせていました。

どこからか風邪をもらってきて、そうすると家のなかがしんとして、マスクごしのこほこほという咳だけが響くと自分が妙に鮮烈にそこにいてひどく面喰ってしまい、普段目を背けているようなことがいつも冷えた窓際にまとわりついて隙あらばねえねえと主張、正直困った。

でも心がねじれた理由なんていくらでもつけられるし、それが長い年月をかけてそうなってしまったものだとしたらねじれたことを認めるは自分を否定するようで躊躇ってしまうけれど、それでもきちんと客観的に自分を把握すること、簡単で難しい、けれどやはり単純なことでした。導いてくれたひと、尊敬できるひとがいること、めぐりあわせに何よりも感謝しています。

たとえば今いっしゅん左胸がちりっとしたけれどそれが肺なのか肋骨なのか胸筋なのか脂肪なのか皮膚部なのかそれとも心臓なのか自分でも不明なほど無関心、けれど、今まではなぜ痛みが走ったのかと痛みを忘れてもそればかりを追求するようなことをしていたのかもしれないなとようやく気がついたような、そんなかんじ。 なにかを探しているときはだいたい視野が狭くなっているから。

秋はからりとした空気で輪郭をみごとに際立たせる。鮮やかに、くっきりと。 まとまって飛び込んでくる紅葉はひどく鮮やかさが潜行するのに葉っぱ一枚を見上げると枯れているようにも見える。 それに秋はいつだって好きなのに短い。毎年もう行っちゃた、と肩をすくめている気がする。

そろそろ冬に追いつかれそう、なんというシック。



2010-11-07

Old habits die hard.



白いバスタオルが機嫌よくはたはたと揺れ、天高く馬肥ゆる、細長いビルのさきっちょにさえもひっかからない雲ら、肺まで沁み渡るように深呼吸。わけあって渋谷、JRA近くを歩けば前を行く歩き煙草率の高さに幻滅、ぬかしてもぬかしてもかぶるは灰、けむけむと咳込んでも誰もかまわず、副流煙をたっぷりと摂取、皆新聞を広げてそれぞれにえづき痰をこぼした道端に限りなく猫背でしゃがみこんでいる。反対側ツタヤからセンター街に進むにつれて道が薄汚れ、呆れるほど威圧的な行為と無遠慮に絡まる視線、踵が鳴り響き、昨日君らが威勢よく唾を吐いたであろう場所にがやがやとやかましく座り込んでいる。

たとえば目をつぶって5秒、瞼を開いた瞬間に異国の地、たった一人きりでワープすると仮定して、先程までと同じように傍若無人な行動をとれる日本人の確率を求めよ。



2010-11-05

has been

今でこそ本についてが楽しくなりましたが実はごく最近の話で、本が好きな人というのは多感な頃にたくさん本を読んでいるのだろうけどわたしはそういう時期に全く読んでいませんでした。社会になんの疑問も反発も抱いていない全能感あふれる女子だったので太宰など読んでも何も響かず超くらーいと真剣に嫌がった、いい大人が何じめじめしてんのって。 記憶をさかのぼると小学生の時に少年探偵団にはまって図書館に通い詰めたことや新学年になって国語の教科書をもらった日に読破するのがお決まりだったし、読むことは好きだったような気がするけれど視力低下という事実、眼鏡への恐怖とともにいつのまにかぱったりと途切れ、いつのまにかハタチを越えた頃、レーシックの手術後、経過もよくノー眼鏡だと実に気持ちよく本が読めることに気がつき、そこから少しずつ本漁りが始まったわけでした、医療のミラクルありがとう。

気分で色々選べるようになったのは嬉しい進歩で、ああ今こういうのを求めてたとめくるたびに思えるのってすごく気持ちのいいこと、もしかしたらわたしのための本なのかも、と本気で思っちゃう時もあるし、それを今日きちんと選べた自分も誇らしく、あれこれの批評はつきものですが、誰が何と言おうと自分がいいと思った本はいいのだし、ただそれを誰かがやみくもに否定してるを聞いたら虚しくなってしまう、いいと思った自分ひっくるめて非難されてるみたいで悲しくなってしまうなってこと。





毎日に大きな夢や達成感がないなんて信じられないし、自分は何かをして役に立たなければ生きてる意味なんてないぐらいについこの間まで思っていたけれど、例えば読みたい本がたくさんあって、新刊も待ち遠しくて、些細な楽しみがつきなければいつもわくわくしていられるかもしれないな、と思いながらタイトルのハスビーンが妙に気になって読んだ「憂鬱なハスビーン」、ぎくりとする部分は多くまさに今読むべき本だったなと心から思い滑らかに読み終えたのですが、白い猫にシロと名付けられたことに今更憤慨していて、その次に読んだ本は黒い犬の名前がクロと名付けられたときは安直でつまらないと言っていたのにいつのまにか洗練された名前だ、なんて言っていた。そういえば拾ってきた犬に「絶対わたしの味方だから、名前は絶対」ていうのもあったなーと思い出して、ちょっと暴力的な気もしたけれど、わたしが名付けられるんだったら絶対がいいなーと思った。わたしは色が白いほうだから「東北出身なんでしょう」と言われることに飽き飽きしていて、しかも全然違います、けれどこれからも多分言われるのだろうし、クロもシロも見た目でつけられるかんじもなんかあれだし、かといって巻き舌必須なおしゃれなお菓子の名前とかつけるような飼い主にかわれたらまぎれもなく服を着せられるような気がして億劫で、そうなると「お前は絶対だ」と言い切る飼い主が一番好きになれそう、ただ日々を従順に、飼い主のことだけを考えていられる、それって実は一番いいと思う、わたしは。

ハードカバーを買うといまだに贅沢な気持ちになるけれど、きれいに置いておきたい気持ちから丁寧に扱ってしまうので手に馴染むという点ではよそ者感が消えない、けれどドッグイアしたいので好きな本の文庫は必ず買って好きなページはどんどん折る、我が家のドッグイアされている率はやっぱりどうしても江國香織さんで、その次は太宰さんのなのです、ぷ。 超くらーいと揶揄していた人に今や救われちゃったり憧れたりするなんて人なんてわからないものだなーとか他人事のように言いつつ、次に自分がどう変化していくのか、実は自分が一番楽しみだったりする今日この頃。

ちなみにハスビーンとは一発屋、もう終わってしまったヤツ、現在完了形のhas beenのこと。



2010-11-01

elegy

秋はどこへ消えたのかと首をかしげる暇もなく寒さが露出部分を突き刺し、ぼんやりと前を歩く人の傘からこぼれた雨粒がなんともいえないネイビーの背中を流れるのを見つめ、ふいをついてきた強風に傘を持って行かれそうになり、ようやく、わたしは我に返ります、台風の上陸は間近、雨音も寒さもより一層鬼気迫る勢いで、土曜午後5時、明日は家に立てこもりを決意、指を冷やす雨が空からこぼれ続けていました。

雨音の中ベッドで寝そべりながら漫画をしこたま読もうと自堕落な計画は虚しく台風はそれた様子、くぐもった空は相変わらず晴れる気配はないのでやっぱり毛布にくるまる救いようのないわたし、思わせぶり台風フェイントくらった日曜日。

聖徳太子が雨を降らすシーンが非常に印象に残ってるは「日出処の天子」、初めて読んだのは小学生の時、あまりにもてんこもりな内容ゆえについていくのも精一杯でしたが、大人になってから読むとよりいっそう感慨深く、色々なことを考えさせてくれる物語で、絵も好き、とくに指の表情がきれい。





丑寅の方よりまうづ~と声が響き魑魅魍魎がやってくるシーンの鳥肌感もいつものことながら背筋が凍るほどの王子の頭脳明晰とそれゆえの孤独が何度読んでも溜息を洩らしてしまいます。

厩戸王子の毛人への想いも右肩上がりで、読んでるといつだって王子の味方になってしまうのは最初から変わらず、毛人だって王子のこと特別という言葉では陳腐すぎるほどな存在なはずなのにどうしてあまりにも普通な布都姫に惹かれてしまうのかとやきもきするのも常、ごろんごろんと毛布に巻かれながらもどうしてもどうにかなってほしいと一人で苦悶、いつだってどっぷりとめり込んでしまう濃ゆさ。

結末は厩戸王子の壮絶ともいえる悲劇で終焉を迎え、続編の「馬屋古女王」は王子の死から見えてくる呪われた血族の行方、欠落をかかえたそれぞれが自嘲しつつおぎなった結果ゆえ恐ろしくも切ない破滅への挽歌なのではないかと思います。 フィクションといえども歴史に忠実にもとづき、聖徳太子は実在しなかったんじゃないかという説もまた謎を深め、リアルなようで非現実な雲の上の不思議な世界。





そうこうしているうちに急激に雨は途切れないリズムで屋根を叩きだしました。

今年は春に雪が降り梅雨は少なく秋は駆け足どころじゃない早さで姿を消し、秋の夜長を妨害するのは誰と寒さに震え、日本はいつのまに四季ならぬ二季になったのか頭を悩ませながらの11月への突入です。



2010-10-28

revolve




めくるめく差別が交錯を、憂愁度数の上昇、ゆるやかな旋回、適温が四肢を持て余す、右脳は無表情、空漠たる夕暮れの。




2010-10-26

my rainboots




もはや冬を連想させる冷たい秋の長雨も完璧に跳ね返すDafnaのレインブーツ




2010-10-19

out of noise

音楽は劣情をそそるものだ、と誰が言っていたのか忘れてしまったけれど、確かにそうだなと思った。どんなに柔らかな音でも激しく感情を揺さぶられてひどく困惑したりすることだってある。たまたま聞いていたラジオからhibariが流れてきたので思わず手が止まりそれから思考から何から全てが減速してしばらくぼんやりとした。微妙に長さの違う同じフレーズが左右で響き、その絶妙なずれを生み出していくのをひたすらに聞いていると永遠に続くような気さえして眩暈がする。あるいは、少しずつねじられていく床屋さんのぐるぐると回る看板を見つめている気分になる。




毎日は全て何かの繰り返し、朝が来て昼になって夜、そしてまた朝。
月曜日からはじまって規則正しく曜日は移り変わり週末数回からの月末。
年明けから12ヶ月たてばまた1への回帰。
死ぬまでにあと何回四季を繰り返すんだろう。

そんなことを考えているとひどく焦燥感にかられ、もっと刹那的に生きるべきだと思ってしまう。
あるいは、世界とほどよく調和する方法を見つけたほうがいい。 




2010-10-05

Red Zone

表面がかりっとしたフォアグラを食べながら斜向かいにいた女の子が唐突に金木犀の話を始めた。
フォアグラなんて数えるほどしか食べたことないけれど、バルサミコソースがかかったそれは笑っちゃうほどおいしかった。最初に食べた時には苦手かもと思ったのに随分と舌は大人っぽくなったみたい。自分が知らない間に色んな味を覚えてる。
金木犀の話。
秋になると小さいオレンジ色の花から漂ってくる甘い香りはいつのまにか秋の香りとしてインプットされている人は多いようで、その女の子も昨日甘い匂いがしたからやっと秋だよね、と言っていた。わたしは金木犀と耳にすると必ず思い出すのは山田詠美さんの「Red Zone」の台詞。

「金木犀を食べたの」





17歳の女の子が28歳の女性に男の子をとられてしまった時おばさんと罵るのだけれど、そうか、28歳ってその年頃からしてみたら随分年上のような気がするなと今さらだけどハッとした。
その女性はショートヘアですっぴんに赤い口紅の素敵な人なんだけれど、自分が28歳に近付いてくるとすっぴんに赤い口紅のハードルの高さに卒倒しそうになるのがまぎれもない現実であって それを17歳に素敵と思わせる実力といったら相当な力量の持ち主なんだと真面目に感じた。

同年代の子はほとんどお化粧をしているし多分唇にもなんらかをのっけているはずで、久々に会った同級生のグラスについた口紅の跡に「そっか、口紅とか、つけるんだ」とどきりとしたこともある。つやつやな唇がはつらつと動くのは同性から見てもきれいだなと思うのだけど、どうしても自分はそれが出来なくてなんか恥ずかしくて控えめに塗ったとしてもすぐ舐めてしまったりするから、結局そのまんまで過ごしていることがもう当たり前になっているくせにやっぱり他人の唇を羨ましく思ったりしていて、わたしだってそのうち日常茶飯事的要素になるはずなのに、やっぱり今だってバッグの中に唇を彩るものが入ってない。
そういえば金木犀の話をした女の子は赤いのを何気なく塗っていたような気がする。

「Red Zone」を最後に読んだのは多分去年の秋、それも金木犀の匂いがした時だから、今年もまた甘くて歯が痛くなりそうな金木犀の香りで約一年ぶりにまた読みかえして、17歳の女の子と同じようにわたしも28歳のすっぴんに赤い口紅の女性に再び憧れた。
赤まではいかなくても今年の秋は口紅くらい買ってみようかなあと思う。

「金木犀を食べたの?」

そんな印象的な台詞がやたらと可愛くて、音読してみたら「きんもくせい を たべたの」という平仮名になって出てきたから金木犀がなんかの星みたいに聞こえて、それがまた馬鹿みたいに良かった。




2010-09-15

Ferris wheel

走馬灯というのは影絵が回転しながら回るように細工された灯篭の一種、だということは全然知らなかった。最近は実物にお目にかかる機会もなかなかないようで、人が死ぬ前にぱぱぱっとスライドショー的なのが一瞬にして上映されるらしい走馬灯現象というものを走馬灯と略して誤用してしまうらしいので、走馬灯を作ってる人にはなんだか申し訳ない話。

特に瀕死の状態になってはいないけれど、昨日の夜、まるで走馬灯現象のような夢を見た。
厳密にいうと、どこら辺から夢なのか、がはっきりしないタイプのもの。
それに過去のこともたくさん出てきたし、食べ物が多かった気がするのは食いしん坊だから。美味しいと言うのを後回しにするくらいおいしかったものやジャンクなもの、それからついさっき口にしたものまで。よく夢を見るから、例えば夢で会った人と次の日会うと、昨日はどうも、なんて口走ってしまいそうなくらいリアル系であり、五感的なものもくっついてくるので、本当にごっちゃになってうっかり炸裂してしまうこともしばしばあったりするけれど、昨日のは思い出せば思い出すほど、夢と現実の境目が見つけられなくなってしまっていて。





観覧車を見た。
あの消灯前のちかちか主張してくる電光石火は初めて見た時からわたしの心をぐっと掴んで離さない何かがあり、人が花火を好きなような感覚なのかなあ。

花火は夜空に空気を震わす音を連れてしゅっと開き、そしてまったくきれいに姿を消していく。
ざわざわとした人ごみの中でそれを見上げると一瞬にしてなくなった火花は、なくなることが当然と思われているらしく、本気で消えちゃった悲しいねさみしいね、なんて感じてる人はいるのかいないのかは、全くわからない、だってみんなイベントとして楽しそうだし終わると混雑に不機嫌だし。もっとこうじっくりと見る機会があれば、もしかしたら好きになるのかもと、ざっくり思う。

夜中の観覧車はある時間になると音もなくふっと突然消える。
そして枠だけが残る、それがまたいい。
あれだけチッカチカしといて消灯するとただの鉄骨、それも剥き出しの枠組み。
けれどまぎれもなくそこにあるから、また明日も光りますよ、という安心さえくれたりする。
観覧車に乗ったことはない。乗った夢も見たことない。





背骨を窓枠で冷やしながらぐるぐると規則的に回る光を目で追ったのは現実で、音もなく華々しく色が散り、しゅっと消える瞬間を見たのは多分夢の中だった気がする、実際にはその瞬間を見逃していつのまにか暗闇にそびえたつ冷たい鉄骨になっていたから。けれど目を凝らして骨組みをなぞるのもわりと好き。

今日はまぎれもなく秋でしかなかった。夏はもう終わってしまって、過去のことになっていた。
どしゃぶりのせいで大きい車輪が冷えたのかもしれない、そんな風がとおくからやってきて頬を撫でて消えて。
わたしのスライドショーに観覧車は必須だなとぼんやり、しかし切実に思う。




2010-09-02

Franny and Zooey

海外文学を今も滅多に手に取らないのは心のどこかで日本文学だって理解しきれないのに外に目をやるなんて贅沢なことだ、なんて気真面目すぎる部分が根付いているからであって、名前とか地名とかが全部カタカナだと覚えにくいという子供みたいな言い分もあるけれど、これはだいぶ昔に読みました、そしてひどく印象深かった一冊。





うまく言葉には表せないけれどすごく影響をうけたし心のどこかにいつもフラニーがいるような気がして、だからこの本が好きだとか誰かに伝えることが恥ずかしくて触れずにそっとしてきたのに、今年のはじめ、サリンジャーがいなくなってしまった事を急に思い出して、また少し悲しくなった。

人間なんて完璧じゃないし自分もどう頑張っても完璧にはなれないし、だからこそ目の前にいる自分以外の人に完璧を求めるなんてもっと無意味だし、それでも完璧、とはいかなくても理想には近づけるように自分を運ぶ行為はいくつになってもやめたくないと思うけれど、ふと立ち止まるとその理想像ですらあやふやになってしまっているような気がして急に不安になったり後ろを振り返ると過去のあれこれに飲み込まれそうになるから必死で顔を上げるようにして、ただあまりにもスノッブな大人ばかりに囲まれるとその行為自体もよくわからなくなってしまうんですが、年を重ねる=大人になるということじゃないんだと気づいたあの日からどうも年齢は信用ならないもので、おかしな屁理屈とともに理論でねじ伏せられてそれがどうしても矛盾としか思えず、そして矛盾している人が矛盾をさらに矛盾をうむ、それは矛盾を作り出していないと正当化するためのもの、それはいかがなものかと奮い立ったところで世の中にげんなりするだけなんてことはほぼわかりきったことゆえ、蜘蛛の糸に絡まったような悪夢もさることながら現実だってけっこうシビア。
出来るだけ自分にとって心地よく過ごせたら、と思うのですがきっと難しい世の中なんだろうな、妥協とか諦めなしのそれは。





ちいさなことに傷ついて、ちいさなことに感動、ちいさなことで大きく笑う。
世界が道徳を失っても、それだけはなくしたくない感情が揺れる部分は、一番見えにくくて、そして美しいところ、なくなっても気がつきにくい、あたりまえという感覚。
たとえ生きていてもすれ違うことなんてないにしても、今まで地球のどこかにいたサリンジャーは本当にいなくなってしまったんだな、と思いながら読み返すと「わたし、シーモアとお話したい」というフラニーの一言がぎゅっとまとまって飛んできて、なんだかちょっと切なくなったりして、なんとなく。



2010-08-30

contrail

シャッターを押すタイミング以前に、カメラを取り出すタイミングのほうが難しい、と思ってしまう。バッグの中にだいたいデジカメは入っているけれど記念撮影とかするタイプではないみたいだし、素敵なお店で食事なんてしちゃっても写真よりも前にすんなり口に運んでしまって、結局デザートだけ撮る、みたいなことも多いなと今気がついた。
だから結局甘いものが好きな子にうつってしまうのだ。(これはれっきとした言い訳です)

今日、夕暮れ時に歩道橋をのぼっていたら、目の前に飛行機雲がしゅっと流れていて、それが沈みかけていたオレンジ色の太陽に飛び込んでいた。
上のほうはまだ薄青空で、太陽の周りの雲は赤みがあって、なんていうか受精の瞬間みたいな空模様だった。

今すぐに消えてしまいそうな偶然あいまってそうなった光景を、きっとそういう時にカメラを取り出してその瞬間を切り取れたら人にも伝えやすいのだろうに、刻々と変化するその空を、わたしは呆気にとられてじっと見つめることしか出来なかったのです。
目が離せないってこういうことを言うんだろうな。それぐらい神々しいものを放っていた。
見渡す限り、その空に気がついて立ち止まってる人はいなかったけれど。
どこへ行ってもみんな忙しそうだ。




この後雲はピンク色に変化し、日が沈むと藍色の空が広がっていてむあっとした湿気含んだ夜に突入していた。8月最後の日曜日はまた来年までおあずけなんだなと思うと、胸がきゅうっとなった。あたりまえのことだけれど、言葉にするとしみじみする。
やっぱりシャッター押すべきだった、と脳裏に焼きついたそれを思い出すたびにちょっと悔んでいます。だって、ほんとうに何かが宿っているみたいだったのだから。




2010-08-29

my sabot



かぽり、かぽり、かぽり、と機嫌のよさそうな足音が鳴る靴はいて、あてもなく。




2010-08-25

SARAN WRAP CITY GIRL

よほど遠い過去のこと、というには大げさすぎるけれど、それくらい記憶は曖昧で、 けれどいつからか当たり前のように東京で暮らしています。そしてその間に様々な出来事があり、どうやら根っこが生えてしまったようである。
なんだかんだ言って東京は破壊的かつきらめき含めた未知なる場所。
東京はある人によって「サランラップ・シティ」と名付けられていました。
全てが被膜に包まれてるような世界を表現するにはなんて相応しい言葉なんだろう、と。
わたしがその言葉を本で知ってから数年が経つけれど、 ますます無色透明のそれは気がつかないうちに勢力を増している気がしています。
けれど今更何かに包まれていないものを直に手に取ることは躊躇してしまうだろうし、 そもそものはじめから、記憶の限り、食品も生活用品も何もかもが透明のそれで覆われていた。
手触りのあるコミュニケーションはもちろん素敵なことだと思う反面、こんなにも便利な時代だからこそ 過ぎ去ったことを美化するより、今が楽しくなることを考えるほうが断然いい。





お世辞にも綺麗とは言い難い街並み、メッセージに溢れすぎている空間、歪み続けるあれこれ。そのことに今更がっかりなんて、しない。個人としてもっと楽しくなること、邪まな気持ちではなく、限りなく前向きな方法、それはあまりにも些細なことでもいい。
例えば、服を着ること。
自分が気持よく過ごすためのツールのひとつとして身体の表面を賑やかにしていく行為。 サランラップシティを軽やかに歩くための自分加工欲はとめどなく、それはいつしかエネルギーに変化してゆくわけで 時に振り回されたりしながらも留まらない、そのささやかで最大の楽しみはいつもそばに。
それから文字を綴ること。
赴くままに彷徨、あるいは、消えかけた軌跡を日々の溜息とともに。